2012年5月4日金曜日

「東京三大銅像」って、どういう経緯・目的で作られたんですか??

「東京三大銅像」って、どういう経緯・目的で作られたんですか??







「東京三大銅像」と言えば、靖国神社の大村益次郎(1894)、上野の西郷隆盛(1898)、皇居前広場の楠木正成であります。

☆大村銅像:大村は靖国神社の前身である東京招魂社の設立に貢献し、結果明治12年の靖国神社鎮座に至ったわけでありますが、明治15年、神社奥に日本初の軍事博物館である「遊就館」が開館されると、明治維新を戦った当時の軍の中心人物たち(山縣や樺山)から大村の功績を残すべし、との声が挙がり、山田顕義を発起人代表として同年建立を発議します。明治18年には資金も集まり彫刻家大熊氏広に発注をすると、大熊は引き受けるも「不勉強につき」と欧州留学をして腕を磨き、帰国後製作に着手し、明治26年に完成しました。日本初の洋式銅像として有名です。

☆西郷銅像:明治22年憲法発布にともない、それまで賊軍扱いもされていた西郷隆盛に対して正三位が追贈されたことから、11月に銅像建立の趣意書が出され、吉井友実が委員長になり、宮内省からも建設費として500円が出される。当初は皇居前に設置される話があったが、宮内省から許可が得られなかったため恩賜上野公園に設置された。明治26年に起工。西郷は高村光雲、犬は後藤貞行が製作した。

☆楠木銅像;明治24年、愛媛県の別子銅山の開坑200年を記念して、同銅山を経営する住友友忠が建立と皇居への献納を企画して申し込み、許可となる。製作にあたっては岡倉天心が校長を務める東京美術学校に依頼。デザインは公募され、明治23年に発注し、楠木は高村光雲、馬は後藤貞行、冑や部材なども違う作者によって日本初の分割鋳造による銅像です。明治29年に銅像は完成し、明治33年に台座が完成して皇居前広場に設置されます。(発起の住友友忠が没したため、住友吉左衛門が完成後に献納した)なお、この銅像は他の銅像と異なり、銅山会社の注文によって宙空でなく無垢の銅像としても有名です。

何故住友友忠が献納のモデルに楠木正成を選んだか?は不明です。ただ、大阪商人である住友家にとっては、河内音頭に読み上げられるような大楠公。という説はあります。

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